受け入れる

by | 2018-12-05 9:43pm Asia/Tokyo

受け入れる

by | 2018-12-05 9:43pm Asia/Tokyo

自分が感情的な人だと思ったことがなかった。冷静で落ち着いた人だと思った。なんかあっても、ある状況を見て、感情的にならないと思った。人と出来事が本当の姿をみえると思った。他の人より優れていると思った。人間が感情的になりすぎる弱点を乗り越えたと思った。もう、自分の感情に奴隷ではないと思った。

しかし、間違った。どのように間違ったでさえも分からないほど間違った。

なんで感情的になってはダメなのか?なんで感情に奴隷だというように考えているんだろう。なんで感情的になることは弱さの合図なのか?

僕は「見えないんだな」って他人に自己満足の目で見た。他人が戦いから逃げている、難しい会話や決断から逃げていると思った。しかし、僕のほうが逃げていたんだ。

僕が短気で、怒らせる挑戦が出てきたら、シャットダウンすることが多い。怒りを収めて、考えをまとめるために退散する。終わったら、穏やかで率直なで挑戦にもう一回向けるようになる。クールダウンした後にもう一回挑戦に向けるようになったことがいいことだけど、僕の着目が必要な挑戦が出てきたことをもっと早く気付くようにならないといけない。撤退するのは、怒っているときに損になる行為をすることを防止するけど、越えなくてはいけない挑戦を新しく作ってしまう。そして、出てきた挑戦をすぐに乗り越えることも防止する。

しかし、なんで僕の問題をそんなように考えているんだろう?と、いうことは、僕がどのように間違ったかわからないほど間違ったという意味していることだ。

なんで僕の怒りを、挑戦を乗り越える防止として考えているんだろう?

新しい考え方:僕は情熱的で愛情深い。僕と、僕が愛している人々のために、一番いい生活が欲しい。僕の怒りは合図だ。僕に何かを伝えている原始的な現象だ。「逃げんなよ」と言っている。「着目しなくてはいけないんだよ」と言っている。「愛している人を抱きしめて」と言っている。「栄光を手に入れるチャンスなんだ!戦え!」と言っている。僕の怒りはグラグラ沸騰しているエネルギーと光の塊だ。力と勇敢と導きを与えてくれる。僕の怒りは美しくて、その怒りで僕が求めている将来を作る。

なんで怒りを抑えなくていけないのか?それより、むしろ受け入れて、愛するほうがいい。

そして、自分の怒りを受け入れたので、他人の怒りも受け入れることができるようになった。他人が戦ったら、その戦うための勇気を尊敬できる。他人が戦ったら、戦うための意思を尊敬できる。他人が戦ったら、他人が本当に大切にしている物事が理解できる。他人が戦ったら、他人を見れば、自分も見える。他人が間違っているかもしれない。僕が間違っているかもしれない。どちらにせよ、僕たちが戦う人だ。僕たちがいる世界が前に進める。

ファームウェアは最新版に更新した。

それこそがゴリラマインドセットだ。