支配的な本能、その3(終)
支配するようにプログラムされた。コードは僕の名前とDNAと環境にある。ビーストと呼ばれるピットブールが番犬になるために育てられるように、僕はあっちこっち回って議論を勝つように育てられた。人の話をよく聞くような訓練を受けたので、あまり情報がなくても議論を嗅ぎ出せる。他人のアイデアの弱点を見つけるように感覚が研ぎ澄ませられた。他人との意見の相違を見つけて、僕の言い分を主張することは息をしたり、食べたりするように自然だ。
しかし、支配する本能は好きにオンとオフにすることを学ばないと、より高い目標を達成することを防止する。その本能は健康的な関係を保ちにくくする。
これか・・・
数週間前、友達と楽しい会話をしていた。僕の誕生日プレゼントとしてゲームを予約してくれた。そのあと、ネットの人について話し始めた。でも、僕がとても尊敬している哲学者を聞くことを辞めたと言った。支配的な本能:始動。
もう少し情報を聞いたら、積極的に友達の意見を批判した(というか、僕が思っていた友達の意見をな)。後で、僕は見下すようなことを言ったことを謝らないといけなかった。友達のことを迅速に批判したことを気付いたので、誤った後、その哲学者との相違の説明を質問した。でも、その質問は哲学についての議論になった。僕の攻撃本能を抑えたけど、他の議論のように扱った:勝たなければならない戦い。
議論は数日間に続いた。議論している間に、僕たちはお互いの言うことに直接にこたえていないなと何回も考えていた。出してくれた友達の言うことが支援していた情報を、僕が見た。興味深かったけど、あまり役に立たなかった。彼の意見をうまく説明しなかったと思った。僕の友達の引用は僕が好きな哲学者を攻撃していた。僕は感情的になっていたことを気付いたけど、それでも、彼の引用を早く見て、はねつけた。
議論は堂々巡りで、僕たちの話がかみ合わなかった。4,5回ぐらい同じようなことを書いて返事した。極端的にイライラさせた。10代の頃に、ネットでした議論を思い出させた。これでこの議論を勝てる!と思った言い分が無視されていたと思った。数日間後、進んでいないので、議論を辞めようと、一緒に決めた。
解剖
2つ日間に頭を冷やした後に、僕は反省して、僕が何をしていたのか理解するために議論の解剖を行った。親のトマト種の話と少し違うけど、僕たちの哲学の議論も同じような価値があった。でも、「もうどうでもいいでしょう?」と自分に聞いたときに、結局満足できない終わりを取り除けた。勝っても負けても、僕が正しくても彼が正しくても、僕の行為が変わる?その議論は僕が本当に大切にして、集中しないといけないことから、ただ気を散らす抽象だけだった。僕の頭の世界に閉じこんでいて、周りの世界から切り離されていた。
じゃあ、問題が理解したら、どうやって議論に正しい意志で向けるために自分を再プログラムするのか?
まず、ピーター・グリフィンの知恵にしたがったほうがいい:
どうでもいいんじゃない?
議論に巻き込む前に、まず自分に聞く:この議論はどうやって僕を強くするのか?僕は議論を勝つことで強く感じたいけれど、結局、勝っても、本当に強くなるのか?勝っても負けても、この議論はどうやって僕の生活と好意をよりよくするのか?
僕は支配的な本能が始動したら、議論の潜在的な価値を評価しなくてはいけない。相手もその評価する過程に参加させてもらったほうがいい。誰かと相違があるかなと思ったら、本当に相違があるか、確認しないといけない。相違が確認したら、「じゃあ、僕が違って、あなたのほうが正しくても、何が違う?」と相手に聞いたほうがいい。返事に満足できなかったら、「じゃあ、どうでもいいんじゃない?」と言って、前に進めばいい。
まあ、誰かのほうが真実に近いだろう。でも、僕がお思っていることと真実との違いが、議論すべきぐらいに大きいのか?ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズがいつ発売されたかという議論を誰かとする前に、「どうでもいいんじゃないかな?」と自分に聞かないといけない。
簡単だ。支配的な本能とそのリスクを本当にいざという時まで置いておこう。それで、幸せな関係を作ったり、意味がない時に「悪く」なれる子供にしたり、将来にできる。